太養パン店
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私たちのこと
『太養パン店』のこれまでの歩み
1916年(大正5年)- 和菓子屋からパン屋へ
和菓子職人であり、岡谷市にて和菓子屋「上田屋」を営んでいた創業者、奥村秀一(ひでいち)は、明治政府によるハワイ移民政策の際にハワイで食べたパンに衝撃を受け、日本でパンを作ろう!と決意、独学でパン作りを始めた。
国民の栄養状態が良くなかった当時、パンで日本を支えたい、太く養いたい、という思いで「太養パン店」と名付け、和菓子屋を閉じ、パン屋を開業した。
(下の古写真:岡谷時代の貴重な1枚。幼い子は秀一の息子、福人。のちに2代目社長となる)
1933年(昭和8年)- 岡谷市から諏訪市に移転
当時、岡谷市で栄えていた製糸業の女工さんたちに好まれたため、パンは贅沢品であったにもかかわらず売れ行きは好調だった。しかし、製糸産業衰退とともに伸び悩み、諏訪市に移転。
1945年(昭和20年)- 疎開・移転
第二次世界大戦中、NTTの電波塔の隣に位置していることから空爆を受けるリスクが高かったため、現在の場所に疎開した。
(実際には約220mの距離の疎開であり、真意は不明)
1955年(昭和30年)-2代目社長就任
奥村福人(ふくと)が2代目社長に就任。
高度成長期の真っ只中で、上諏訪駅駅前にあった「まるみつ百貨店」が創業したときから百貨店内に出店し、さらに当時飛ぶ鳥を落とす勢いで成長していた三協精機、SEIKO社、東洋バルブなどの大手企業の勤め人たちがよく買ってくれていたため、この時大量生産の方向に舵を切った。
また同年、現在の看板おばあちゃんの一子(かずこ)が嫁いでくる。近隣では、綺麗な人がお嫁に来た!と見物人が押し寄せた。なんと、その人気ぶりにブロマイドも制作されたほどであった。
(現物は残念ながら見つかっていない。一子さん本人は恥ずかしそうに「捨てた」と主張している
)
ちなみに福人は大変遊び上手な人で、毎朝甲府にボーリングに行き、昼食にお店に帰ってきて、また午後再びボーリングのために甲府に出かけていった、という逸話が残っている。
(一子さん談)
1987年(昭和62年)- 3代目社長就任
奥村透(とおる)が3代目社長に就任。「透」の名前の由来は創業者の秀一の「秀」に「辶」(秀にわをかける)という意味で2代目が「透」と名づけたとのこと。
現3代目の透社長は、それまでの大量生産していた製法から、伝統的な自家製天然酵母による製法に戻すなど、より良質なパン製造に情熱を傾け、現在に至る。時代の変遷とともに柔軟にニーズに応え続ける姿勢は代々受け継がれてきたと言える。
(取材・文:kisa)